昭和44年12月20日 報徳祭
                             中村良一


こんにちは皆さん、おめでとうございます。只今、親先生から、有難いお話を頂きました。いつも頂いてある、御教えでございますけれども、頂けば、頂くほど、分からなくなる。頂けば頂くほど難しゅうなるお話でございました。確かに、これは、信心に限ったことではありますまい、辛抱という事は。その、何の事によらず、辛抱の出来ない人に、事の成就することはありはしません、ね。けれども、わけても、信心には、これは、三代金光様のお言葉に、神信心には、辛抱する事が、一番大切でございますと。これは、三代金光様のお言葉ですね。何が何と言うても、一番大切だと仰せられております。ね。ですから、その辛抱を大切にしなければなりません。同時に、四神金光様が、久留米の初代、石橋先生に、御教え下さったという、ね。辛抱さえしときゃ、物事叶わん事はないぞと、御教え下さった。そこで、お互い、辛抱だ、辛抱だと思うて、まぁ辛抱させて頂いておるのでございますけれども、その、物事が整わない。ね。
もし、信心辛抱させて頂いておいて、整わないことはないというのに、整わないとするならばですよ。これは、私共、大いに一つ、考えなければならないことだと思うのです。辛抱はしておるけれども、それが、信心辛抱になっていないというところではなかろうかとこう思う。ね。しかも、信心辛抱させて頂いておったら、どの様な事になるか。物事は整わないことはないと言うだけではなくて、ね。信心辛抱させて頂いておる、私自身、皆さん、一人ひとりがです、どの様な事になるかと。ここに、三代金光様の、いわゆる、ご述懐のお言葉の中にございますよね。御年僅か、十三歳あまりで、お父君でありますところの四神様が、御用なさるよう、御神勤十年間、何十と言う若さでお隠れになられた。後を受けになられた三代金光様、ね。金光攝胤の君が、後を受けられて、何と、七十年間、本当に、後にも先にも、このような宗教家は、もう出るまいと、皆が言っておるほどしの辛抱し続けられた金光様でございます。その金光様がね、神信心には、辛抱が一番大切でございますと。これは身を持っての体験から、そういうお言葉がいただけたんだと思うんです。ね。座っておれば楽じゃと仰せられるから、ね。それこそ、泣く泣く辛抱しいしいに座っておりましたら、思うこともなくなり、欲しいものもなくなり、ね。ただ、有り難うて、有り難うて、その有難さに、ね。お礼も足りないお詫びばかりを致しておりますと仰った。こういうように、信心辛抱と言うものは、私は極まって行かなければいけないと思うのです。ね。信心辛抱させて頂いておりましたら、思うこともなくなり、欲しいものもなくなりと言うところにです。信心辛抱の値打ちがあるのです。だから、物事、整わんのです。ね。先ほど、親先生のお話の中にもありましたように、そら、我力で辛抱しておるというのでは駄目だし、ね。その辛抱、なるほど辛抱しなければならん。もう、これ以上のことは辛抱出来んという様な、そこからが辛抱だと。ね。そこからが辛抱なんだと。しかも、信心辛抱なんだ。ね。
その辛抱がなされていく時に、どういう事になっていかなければならんのか。ね。なるほど、辛抱しなければならないほどしのことですから、泣くにも泣けない様な事もありましょう。痛いこともありましょう、辛いこともありましょう。ね。けれども、辛いです、苦しいです。けれども、有難いというものがね、必ず、信心辛抱には伴うておるものだと、私は信じます。ですからね、如何に辛抱を、何十年辛抱をしておりますと言うても、その辛抱しておる答えにですね。有難いというものが、答えに出ていなかったなら、あなたのは、信心辛抱じゃないのです。という事になるんじゃないかと思うです。ね。四神様が、嘘を仰る筈はない。信心辛抱さえしとりゃ、物事、整わん事はないぞと教えられた。ね。それを、初代の石橋先生が、掛け守りのように、それを奉じ、行じ抜かれた。そして、あのようなご信心がご成就になられて、現在、私共が、こうしておかげを受けられておる様な道が、そこから開けてきておる。ね。だから、私共の、信心辛抱もです。やはり一つ、検討しなければいけません。ね。第一、思うこともなくなる、欲しいものもなくなると言うほどしの辛抱でなからんければいけないと思う。
我情我欲を離れて、真の御道を開けよ、わが身は神徳の中に生かされてある。私共がね、如何に理屈の上に、御神徳の中に生かされてあるんだと分かっておっても、それは、おかげになりません。なるほど、ね。吐く息吸う息、いっぱいの水でもが、神様の御神徳の現れであるという事が、如何に分かったって、有難いなぁと言うものが出てこなかったら駄目でしょうが。ね。だから、分かっておるだけじゃいかんのです。ね。御神徳の中に生かせれてある事をです。もう、ひしひしと、身近に、勿体ない事だなぁと。有難いことじゃなぁと、と言うような、有難いというものが伴うていかなければ、私は、信心辛抱の値打ちはなかと思う。ね。やはり、第一、思うことがなくなるという事がです。いわゆる、我情がなくなるという事なんです。我情と言うことは、自分の思いなんだ。あぁもありたい、こうもしたい、ね。人間は、この、あぁもありたい、こうもしたい、こうしなければならないという物がなくなったら、どんなに楽なことだろうと思いますね。楽です。勿論それに、我欲がなくなる。いわゆる、欲しいものもなくなると言う、ね。それは、我欲なんです。ね。その思う事がなくなり、欲しいものが無くなるところからです。我情我欲を離れた姿、そこにです。有り難うて、有り難うてと言う境地に、三代金光様は浸っておいでられた訳なのです。ね。
しかも、そこからですね。有り難うて、有り難うてというご心境が開け、ね。それでも、まだ、且つ足らない。ね。これほどしのおかげを頂いて、御礼の足りない、お詫びばかりを致しておりますというところにも、もう、金光様のご信心が、ここに極まったという感じが致しますね。人間、生身を持っておる事でございますから、相すまんことばっかり、三代金光様にして、それなのですから。お詫びばかりを致しておりますと仰せられておられます。ね。これはもう、三代金光様の、いわば、専売特許のものではない。私共、信奉者の一人ひとりがです。ここの所の、神習いを修行しておかなければならんと思うのです。身に着けていかなければばならぬ。段々、信心させて頂く様になりましたら、第一、思うことがなくなりましたと。嫁後が、あげんしてくれると、良いと思うけれども。息子が、まちっと、言うことを聞くと良いけれども。それがなくなるんです。ね。
自分が、あそこの芝居に行きたいと、自分は映画を見に行きたい。それは、なくなるんです。皆さん、そういうものがなくなるとね。芝居も見げに行かれんと言うごたるこっじゃないですよね。そらもう、温泉にも行きたいと思うちゃならんち。ほんなら、温泉に行っちゃならんという事じゃない、ね。そこに、許されての、例えば、温泉行きもありゃ、お芝居見もあるのです。ね。我情を外すと、そこん所にですね、はぁ、なるほど、わが身は神徳のなかにあるんだなぁという事を感じます。ね。神様が要らんといや、無碍にでもやろうと仰る。見らんでええといや、見てくれと言わんばかりに見せてくださる。ね。お互いの信心辛抱、そのものをです。もっともっと、本気で、信心辛抱になっておるかどうか。ね。ただ、辛抱しておるだけでは、何時までたってもおかげになりません。あの信心は。ね。その辛抱の答えがです、有難いという事になってこなければ、おかげにはならない。
今朝からの、御祈念の後に頂きました御理解。御理解四十二節でございました。ね。これほど信心するのに、どうして、この様な事が起きてくるであろうかと思えば、もう信心は留まっておる。これはまぁだ、信心が足りんからじゃと、一心と信心を進めていけば、そこから、おかげが受けられる。ね。私は、信心辛抱という事がね。ここの所に、いただかなければならんと思うです。ね。これほど信心するのにと、どれだけの信心をしたかと。毎朝、朝参りをした。毎日、お初穂を包みよる。もうそれで、行くのがいいのか、ね。どれだけの信心を進めさせて頂いても、これで済んだとは思いませんと言うのが、御道の信心のあり方でなからなければなりませんからね。また事実、実際、自分の信心を、どんなに頑張らして頂いてもね。もう、これで十分という事は、ありはしません。後で、そん時は十分の様であっても、後で考えてみて、はぁそこも、ああいう事で、ようもお許しいただいとったもんだと思うくらいな。ね。ですから、私共はですね、そういう、例えば、何かに直面した時です。これほど信心するのに、どうして、この様な事が起きてきたであろうかと、来るであろうかという様なです。思いの起こらんで済む信心をいただいとかにゃいけません。ね。それには、やはりね、ひたむきなものが必要です。ね。
三代金光様、二代金光様のお祝詞を頂いておりますと、ね。あからさまにも、それを、いい加減なことになさらないというような事が、お祝詞の中にもございましたですね。それは、その様な事が、お出来になられるという事はです。結局、神様ヘ向けられる心と言うか、ね。人が助かることさえ出来ればと言う、その心と言うか、そういう心がです、ね。ひたむきに、その事だけしか、お考えになっておられないからなんです。私共、信心させていただく者のね、やはり、信心、折角させていただくなら、その、ひたむきな精進が、私は必要だと思う。ひたむき、ひたむきですから、横は見えない。ね。前のほうだけしか見えない。ね。ですから、何が起こっても、どういう事になってもです。これはまぁだ、信心が足りんからじゃという事になって来るのです。
私が、教師としてお取立てを頂かせて貰う。教会として認可を頂く、ね。十八年間と言う、長い年限を要しました。ね。その時、その時の総代さん方、幹部の方達が、随分、お骨をおられました。ね。本当に、今度こそは、おかげが頂けれるなぁとこういう様な。けれども、何かの所から出来てこない。ね。そういう時に、私を初め、皆が考えたことは、その時、そういう御用をなさった人達が思った事は、ね。どうして、御本部は分からんじゃろうかと。というような事ではなかったです。これは、まぁだ、私共の信心が足りぬからだという事だったです、何時も。ね。神様は、もっともっと、大きなおかげを下さる事のためだと、私共は信じておりました。それも、それを信じさせてもらえるものがあるからではあります。ね。
私が、お商売をさせて頂いておる、そのお商売がもう、にっちもさっちも行かんようになった。それでも、やはり、親先生のお供をして、毎月、御本部へお月参りをさせて頂いた。ある、お月参りの時に、親先生から、ね。とにかく大坪さん、もう、あんたが事ば、こげん一生懸命、私はお願いしよるけれども、その、右と願えば、左という様な結果になって来るから、金光様に、教えを伺うてみろうという事になりましてね。親先生が、その事を、大坪総一郎の、今後の、一身上のことについてのお届けをして下さいました。そしたら、金光様が、このように仰ってくださった。御道の教師としておかげを受けられたら結構ですと仰った。御道の教師として、おかげを受けられたら結構ですと。ね。ですから、どのような問題だっても、どのような事があってもですね。もう絶対、私は、教師になれれるんだと。絶対、教会としてのお取立てを頂くんだと。それは、十年が、二十年かかっても、必ず、おかげが頂けれるもんだと。こういうところを信じておりました。これは、その途中でしたね。五年目ぐらいでした。
椛目にあの、両親がおりました。あの部屋が出来た当時でした。私は、具合が悪くて、昼、休んでおった。そしたら、途中から、私が起きだしてから、その、床の上で、やおら声出してなきよるものですから、横におります母が、総一ちゃんどうしたの、親先生、どうしたのと言うてやってきました。ね。お夢の中にね、私が、御本部参拝をさせて頂いておる。ここに御結界がある。ちょうど、あの辺の所へ、私が座っておる。金光様が、ここで、お取次ぎをなさっておられる。御祈念を終わってから、こう、頭を上げさせていただくと、金光様が、御結界をお立ちになるんです。あら、どこさへか、お出でになるだろうかと思ったら、お広間のほうへ降りてこられたです、ね。そして、例えば、そこへ私が座っとるなら、このぐらいなところに座られてから、ぴちっと座られてね。手を着かれてからね。ずーっと、頭を下げられました。もう、それを見て、私は、勿体ない、勿体ないと言うて、わんわん、声を出して泣きよった。ね。まぁ、こちらにおるという事は、私は、まだ信者という事だろうと、こう思いました。ね。私は、金光様から、お頼みを受けておる。それこそ、もうしばらくの辛抱じゃと言うて下さったような気が、例えば、そういうような事もありましてね。もうその、私の、例えば、教師お取立てとか、教会設立とかいう事は、どんな事があっても、これだけは、私は、信じきって、またみんなも、それを信じきっておりました。ね。そしたら、どうでしょう。ね。おかげを頂いてから、子供が、私より先に教師の資格を取らせて頂き、しかも、ここに、どうでも移転しなければならない様な事になり。そこで皆さん、よりより話し合って、折角ならば、まぁバラックでも、ここに建てようじゃないかという事になり。そのバラックの筈のが、この様な立派なお広前が建立されるという事になり。しかも、その開教式に、または、一年祭に、教会の認可をいただき、私の教師拝命という事になって、結局、私が、ここの教会の初代教会長として、おかげを頂くことになった。ね。私の場合、信心辛抱がですね。その様に実って行きよる。ね。物事は、整わんはずはないと仰るのが、本当に、有難い意味合いにおいて、それこそ、勿体ないような事柄によって、整うていっておる。ね。
その間、私が、ほんなら、どういう信心をさせて頂いたか。皆さんに、これは、椛目の信心。これは命だと言うて、皆さんに、私が共に、共励し合うてきた事はです。ね。いわゆる、言葉を変えると、辛抱していくより他にない。辛抱の信心辛抱だという事だったんですけれども。それは私は、成り行きを、いよいよ、尊ばせて頂こうという事でございました。ね。私の上におきてくる、様々な問題。それには、甘いものもありゃ、苦いものもある。まぁ私が、ここでこういや、私の顔の立つ事もあるけれどもです。それを、黙って受けて行こうというし、もう、それはそれは、あそこへ、五年間あまりと言うものはね、もう箸にも棒にも掛けられないような、その、ものを、ものじゃないよね、人を連れてくるのですよ。もうとにかく、椛目のお広前も、肺病の集まりと言われるぐらいに、もうとにかく、青瓢箪のごたっとが一杯でした。そして、連れてくるが最後です。置いたっきり、寄り付かんとですけん、親は。ね。もうその、言うならば、どのくらい、迷惑を蒙ったか分からんけれども。私は、それを、一つも迷惑とは思わなかったですね。もう、そういう事を、だから、断るという事をしなかったんです。ある場合にはね、あの、お金借りに来た人があった。全然、信心な無かった。私は、お賽銭箱ひっくり返して、みんな持たしてやりました。ね。ただし、そういうようなですね、事はね。きっちり、四年半でした。そういう事が続いたのは。ね。五年祭の記念祭を仕える時には、もう、そんな事はなかった。もう、嘘のようになかった。してみると、あれは、やっぱり、四年半と言うお試しじゃったなと思うくらいだった。ね。
だから、ほんなら、例えば、今私が、如何に、成り行きを大事にするからと言うて、お金貸して下さいと言うたっちゃ、もう、今なら、一銭でも出しませんよ。病人ば、預かって下さいち言うたっちゃ、もう絶対、金輪際、そげなことは出来ませんと言うて、私は断る。あっはは、ね。私がね、四年半目でした、お夢をいただいた。私がね、ほうれん草を生で頂きよる、ほうれん草を。しかも、こう、ひっかいだばっかりだから、土も、ちった、ついとる。赤い枯れた葉もついとる。髭も、こうついとる。それをですね、黙って頂きよった。そしたら、お夢の中でね、これからはね、いわゆる、髭やら根やら、食べられんごたっとこは、綺麗に切って、水で洗うて、これからは、そこだけを頂くようにという事が、いよいよ、成り行きを大事にすることだという風に、お夢の中で頂いた。ね。それから、私は、例えば、そういう事があった、これはお髭だと思うなら、切って捨てる。ね。と言う生き方にならせて頂いておる。今日まで、そうオです。ね。けども、成り行きを尊ばせて頂くという事は、今も昔も変わりません。そして、段々、成り行きを大事にさせて頂きながら、いよいよ、分からせて頂いたことはね。はぁ、真の信心とは、これだという事を、私、感じさせてもらった。これは真の信心、これだと言うて、一つ二つじゃなか。ね。しかし、これは間違いはない。ね。そうでしょうが。成り行きという事は、そのまま、神様の働きなんです。ね。ですから、如何に、神様をね、神棚に、恭しゅうお祭りし拝んでおってもね。成り行きを尊ばなかったら、神様を尊ばんとと同じ事だと、私は結論するです。ね。だから、成り行きを尊ぶということはね、もうそれは、神様が、私の、求め給う真の信心を下さってあるという事なのですから。ね。これが真だと、ね。いわゆる、天地の真なのだ、を、私共の真で、受けていこうというのである。ね。そこから、それこそ、ね。願うた通りのおかげぐらいのこっじゃない、夢にも思わぬほどのおかげが展開してくる。ほんなら、その間の事がです、ね。成り行きを尊ばせてもらうとか、成り行きを大事にするとかと、簡単な事のようじゃけれども。さぁ、その時に直面すると、場合によっちゃ、血の涙の出るような事もありゃ、痛いこともありゃ、苦しいこともあるけれども。さぁ、そこが、信心辛抱なんだ。そういう事が分からせて頂いて辛抱ですから、ね。そういう事が分からせて頂いての辛抱ですから、ね。痛うございます。けれども有難いという事になった訳なんです。ね。信心辛抱とは、私は、そうだと思うんです。そして、自分の、如何に思うたところで、思いが成就することは、もう我情が成就する様な事じゃから、思わんほうが良いと言うて、思うことが、段々、なくなってきた。本当に。ね。だから、ここで稽古をさせて頂く人達は、このことに、やっぱり、一生懸命、精進しております。皆さんもそうでしょう。ね。信心辛抱と。
最近、教団で取り上げられております、様々な問題がございますが、これはもう、何時も場合も出ると言う話が、ね。今日も、教師会があって、そういうような事柄が、お話の中心になるはずです。総代とも、今日は、みんな、あちらへお出でられました。ここは、若先生が参りました。ね。それは、御道の信心、ね。金光教の社会性と言うか、ね。それから、マルショウ、ね。少年少女会、または青年会、ね。若い人達がね、現在、御道の信心で育たない。それは、どういうところに原因があるかと。もう、それこそ、もう、本当に、寄る度々に、その事が研修の、話し合いの元になって、段々、段々、それがこう、色々、練り上げられて行っております。どういうところに、御道の信心がです。その、ぱぁーっとした事がないかと、若い者が育たんかと。まぁ、色々原因はありましょうけれどもね。
私は、先日、こう言う話を聞かせて貰うた。ある宗教の方、大したことでもない、職人さんらしい。ここのご信者さんが、その方に会って、いろいろ、商売上の事があって、お話をした。今月は、もう、いよいよ、自分達に、その方も、ある信心をしておられる。信心に打ち込まなければならん。その為にはね、もう、夜もなからなければ昼もない。仕事もない、打ち込んでるだけなんです。ね。どうして、そういう事が出来ますかと。まだ、信心されてから、僅かになって、どうしてそんなに打ち込めますかち言うて、その方が聞いたらね。世の中が明るうなるためにち言わっしゃった。その人が、いたく感心しましてね。世の中が、明るうなるためにです。今も、やはり、今日もです。もう、一生懸命に、勧誘ち言うでしょうか、お導きと言うのでしょうかねぇ。回っておられるそうです。先月は、一月働いたから、今月はもう、選挙前でもありますから、一生懸命に、その、お導きをして回る。ほとほと、感心しましてね。しかもその、言われることが、世の中が明るうなる事のためにとこう言われる。金光様のご信心な、これだけ合楽に信者がおるが、世の中が、明るうなるために、朝参りしよるもんが、一人でもおるだろうかと、自分で思うたと言うのです。ね。世の中が、明るうなることのために精進する。
それから、私はまた、色々と、これは、他から話を聞いた。ところが、その宗教はね。お導きに回って、お導きをすると給料が出る。一日費やすと、一日の手当てが出る。ははぁ、そんなら、やっぱ、出るじゃろうと、私は思いましたですね。その、大義名分も立つしね。世の中の、それはもう、教義を、いやと言うほど、勉強させられるそうですね。だから、それも、生かじり分かるでしょう。ね。そして、本当に、人の世の明るくなることのために、奉仕をするという訳なんです。その、奉仕されてもです。もう、家内やら子供達は、本部のものが見てくれるという訳なんです。ははぁ、こういうところにね、金光教の信心がね、ではその、そういう風にこの、比較が出来ない理由が分かったんです。と言うて、ほんなら、金光様のご信心がですよ。皆さんが、お導きに回りなさるきんち言うてから、こっから、給料を出す訳にはいかんですもんね。はっはは、そらもう、大祭前も、三日も四日も、御用頂きなさったから、そんなら、あーた方に、弁当代でも上げましょうという訳にはいかんです。それが、金光教の信心の、まぁ、言うならもう、生き方なんですから。だから、片一方は、そうする事が、ね。そういうひとつ、システムの中にある訳なんです。その宗教は。ね。言葉には良いですはねぇ。世の中が明るうなるためにお導きに行きよる。その人が聞いてから、ほとほと感心した。けれども、よくよく、聞いたところが、ほんなら、給料貰いよるけん行きよるとは言うとらんです。ね。そこに、信心と、その事との、二道がある訳です。ね。それこそ、色と欲との二道かけるという事が、ね。信心しよるという、一つの、自負心と言うですかね。そういう様な物も、満足出来る。一生懸命、御道のために働いとるという気持ちもある。裏のほうでは、心配がない。家庭のことも不安がない。金光教でも、だから、そういう事にすれば、それは、本当にそれは、もっと素晴らしい教義を持っておるのですから、でしょうけれどもね。金光様のご信心は、それではいかんのですものね。そういう生き方じゃないですもんね。畳半畳に座りきって、そして、難儀を求めてくる、難儀から救いを求めてくる、その信者氏子の一人ひとりに、確実に、ね。それを取り次ぎ助けさせて貰えれるという事なんです。それが、金光様のご信心の生き方なんだ。だから、そういう、だからと言うて、真似をする訳にはいかん。夏の日に広がるかぼちゃは、もう、あっという間に広がる。けれども、メロンのような、立派なものはね。そげん、かぼちゃのごとはいかんのです。また、同時に、そして育てにくいです。ね。そういうですね、そういう育てにくい、ね。けれども、それは素晴らしいのだと。そういう信心に、お互い、縁を頂いておるのでございますから、私共が、本当に、育てられなければね、ならんという事です。ね。それには、どうでも、信心辛抱が必要なのだと、ね。打てば響くようなおかげを頂くという様な事がないから。けれども、無邪気な信心すりゃですね。やっぱ、頂きますよ。ね。
ここへ、最近、熱心に参ってくる方がある。もう、お取次ぎをえて、ただ拝むだけ。お供えするだけである。競輪に行きよりなさる。夫婦で来ます。この頃、お願いして行ったら、二十五万円儲かった。そらもう、やっぱ、合楽の金光様は違うちいうごたる風な、そらもう遠方から、どこの競輪場からでん、ばぁーっとその、その場でタクシーを駆って御礼に出て見えます。私は、その日もここで、ちょうどあの、私が、各教会に電話をかけよった。御結界から。この大祭の、どうぞ、参列して頂くようにという事を。私は、こっち向いてからかけよった。そして、若先生は、こっちから、電話番号ば、ずーっとこう言うてくれよった。そん時、ちょっと、こっち向いたところが、そこへお初穂ば置いてあるもん。あら、どうして参ってきた。はぁ、今、おいてから、つーっともう、逃ぐるごとして、行きなさったですよち言いますもん。それから、その二三日してから、奥さんが、参ってきてからじゃもん、ね。あん時に、あーた、家の主人は、二十万円儲かった。あん時もう、十万円お供えするはずじゃった。ところが、ほら、帰りがけ行ってから、五千円お供えしてきたち言う。そげなこつするなら罰かぶるち言いよったが、あくる日は、二十万取られたち。(笑い)だから、ちょうど、神様は、五千円がた、おかげをやってござる訳ですよ。ですからね、この神様は、その、何ですか、願う氏子に、おかげを授けと仰るのですからね。もう、それも、無邪気で無邪気でですね、無邪気な、そういう生き方でね。そういうご利益ならば受けられます。けれども、如何にその、競輪で百万、千万儲かったところで、それで人間が幸せになるという事には、ならんのですからね。段々、そういううちに、また、お育てを頂く、チャンスを頂くだろうと、まぁ思わせて頂くのでございますけれどもね。そういうおかげも、頂けるんです。
私は、この頃、ちょうど、十月の御大祭が終わりますと、ここへ、幹部の方達が、私をその、慰労に誘うてくれるんです。今度は、日田へ、日田にその、美味ししいものがある。そこへ食べげ連れて行ってもらった。丁度、雨の日でした。だから、私が、今日は、何時もこう、窯元巡りなんかするけれど、そういう事をやらずに、いっちょ今日は、お地蔵さん参りなっとんしようかち言うちから、私が言いだしましたから。皆さんも、お参りになった方も、沢山ありましょうけれども、高塚のお地蔵さんにお参りをさせて頂きました。そらぁ、私は、感心しましたよ。とにかくあの、雨の降る日にですね、三々五々ではありますけれども、お参りが絶えない。しかも、そこに、お線香がたいてある、おローソクがたいてある。もう、朝から、どのくらいお参りがあったか分からんち言う。ね。ほう、そらちょいと、本当、(えらいご利益、)そこには、当人さんち言うのがござらんのです。自分で、一生懸命拝んで行く。そして、私は、あそこで思うたです。でその、拝み方が、みんな真剣なんです。ね。もう、一生懸命、拝みよるです、皆が。また、お百度踏みござるです。そして、その方達の、言われる事はですね。高塚のお地蔵さんなね。お金がかからんち言う、第一。お線香が十円で良かち言う。おローソク買うて、二十円ありゃ、参らるるち言う。私は、よくよく考えてから、ほんなごっじゃろうかと思うてから、ところがまた、日田から、遠いこと遠いことですよね。ここからあーた、バスで行くなら、やっぱ、千円かかるでしょう、行き戻り。で、そげな事はですね、旅費の様な事は、いっちょん、金の要るとにしとらんです。神様に上げるという事だけが、二十円で良かち言いよりなさる。人間なその、何かこう、何でしょうかね。何かにこう誤魔化されとるような感じですは。ね。一つ、魔術にかかっておるようなもんですよ。してもう、高塚のお地蔵さんなお金は要らん。それこそ、金光様なら、尚要らんとばってんね。それこそ、しゃっち、お初穂せんならんち言うことはない、お賽銭あげんならんち言うことも。それこそ、氏子の真があるならば、庭の塵までもと仰るくらいだから、お線香一本あげる事は要らんとじゃもん。それでも、おかげは受けられるとじゃけれども、どういうもんか、当人さんが、座ってござるもんじゃけん、やっぱ、いやなんでしょうねぇ。はっははは、はぁ、こらしかし、私は、思うてですねぇ。ほう、高塚の地蔵さんに、これだけもお参りがある。そらもう、とにかくですね。こらやっぱ、おかげ頂くと思いました。その、先ず、願う時にはですね、願いを、例えば、私は、糖尿病じゃけん、糖尿病のことをすぐ気が付いたが、ちょっと見たら、もう、糖尿病という字を、糖尿病、糖尿病、糖尿病ち言うて、何千字ち書いて、お供えしてあった。ね。わが心に神がござるから、一心を立つればおかげになると仰るがです。本当に、それも正確に、糖尿病、糖尿病、糖尿病と、地蔵様の心の中に念じながら、糖尿病、糖尿病と書くならば、あれだけでも、やはり、ご利益が現れてくるものだと、私は思いますよ。ね。入学試験のこと、病気の事、もう、様々な事が願われておられます。
さっき話しました、その、二十万儲かったという人も、元は、あちらのご信者さんだった。ところが、この頃、やっぱ、合楽のほうが良かごとなってから、合楽のほうに、おまいりに来て、見えるごとなったんです。ね。本当に、人間の、その、一心と言うものはですね。その、はぁどげなこっでん出来ますよ。はぁ、どこどこのお医者さんの委員長という人が、夫婦で参ってあった。ね。もう、何年間参る。子供が、大学の、その受験のために。それこそもう、恥も外聞もなか、一生懸命、ご夫婦でお百度踏みなさる。そして、帰りがけ、おみくじをひいては、そのおみくじを見て、安心したり、ね。一喜一憂しながら帰られうという訳なんです。ね。
私はね、ここのお地蔵さんのね、言うてござる事が素晴らしいと思うんです。素晴らしいというと、キャッチフレーズが素晴らしいんです。ね。それこそ、人間の、弱点を突いてあるです。ね。人間の願い事、一つならば、必ず叶えてやろうと仰ったげな。だから、皆がですね、もう、金のなかもんな、金さえ貰や良かと、この病気さえ治して貰いさえすりゃ良かと言うて、その、そういうところが素晴らしい、ね。一つだけは、聞いてやろうと。そら、聞いてやるか、やらんか、そら分からんよ。ね。けれども、やはり、自分がその、一心を立てるから、おかげになるのですよ、やはり。霊験も現れる筈だと思うんです。今の様にお百度踏んだり、あーた、そすと、糖尿病、糖尿病ち言うて、あーた、もう、ずーっと書いて、ね。その間に、一心が出てくる訳です。ね。
私共も、ご他聞に漏れずに、みんなでその、おみくじを引かせて頂いたら、そしたら、やっぱ、ぴしゃり当たるとですよ。みんな、それぞれの、こら、それこそ、頭、かかにゃんごたるこつが書いてある。ところが、私のはですね。三体あるとの中に、えー、どげんじゃったかね、とにかく、何百かの間の中の、一番ち言うのが出てきたんですよ。そして、どういう事が書いてあるかと言うとですね。ね。天地を貫くね、天地を貫く滝の水の如しと書いてあった。はぁこらやっぱ、合うとると、私は思うたです。はっははは、(笑い)ね。それでも、やはり、信心だと思うておる人もあります中にですよ。ね。私共、金光様のご信心させて頂く者がです、ね。何遍参ったけども、おかげいただかじゃったと言うのじゃなくて、本当の、いわゆる、真の信心を分からせて頂いて、あの世にも持って行け、この世にも残しえおけれるというほどしのものをです。身に付けさせて頂く事が、自分で分かる。はぁこれならば、あの世に持って行けれるだろうと。それが、生まれてくるのが、信心辛抱なんです。ね。どんなに苦しかっても、ね。どんなに難儀な事であっても、そこを辛抱し抜かせていただくという、辛抱して行きよるうちにです。思うこともなくなる、欲しいものもなくなってです。それこそ、有り難うて、有り難うてと言うような、その、真似方の様なものではあるけれども、いただけて来る様になる。ね。
先ほどから、私が、ある宗教のですね、それをお話いたしました。それ、世の中の、明るうなることのために奉仕をする。そらもう、素晴らしいと思って、感心しておったら、給料ば貰いござると聞いてから、ちょっとまた、考えた。けれども、給料もろうたっちゃ、出来んものは出来んですけれども、そこに教義が、素晴らしい教義があって、その教義を聞くとです。そうする事が、やはり、仏様が喜びなさるということで、一生懸命なる。そして、人ば一人導きゃ幾ら、ね。位が上がるらしい、ずーっと。上がったら、給料も高うなる。だから、やっぱ、弾み甲斐がある訳です。ところが、金光教は、そういう訳にはいかんと、ね。だから、どうでも、真の信心を分らせて貰い。同時に、真の信心へ向って、しかも、信心辛抱が続けられていかなければならないという事になるのです。どこまでも、ただ、辛抱じゃいかん。信心辛抱でなからにゃいかん。辛抱させて頂いておるうちに、様々な事が分からせて頂く。いわゆる、本当のことが分からせて頂く。辛抱していくうちにです。ね。人間の幸せという事が、ここにあるという事が分かるから、この幸せを、あの人にもという事になるのである。
最近、私は、皆さんに言うておる、ね。人に幸せの、人の、まぁいっちょ、あそこへ、看板ば出そうかと、私が言いよるです、最近。ね。人の幸せのために、ね。人が助かることのために、ね。世の中のお役に立とうと言う。私共が、信心して、ね。和賀心が生まれてくる。和らぎ喜ぶ心が生まれてくる。例えば、どの様ななかにでも、有難いというのが生まれてくる。その、有難い心で、奉仕をする。その、有難い心で、お導きをする。有難い心で、世の中のお役に立つために御用を頂かせて貰う、ね。朝参りの、例えば、その願いが、ね。その自分に頂いておる、この有難いものを、皆にも分けてあげたい。ね。そして、自分の周囲が、少しでも、明るくなることのおかげを願わせて頂くという信心。もう、合楽だけが、よかりさえすりゃ良か、自分が助かりさえすりゃ良かと言うわけにはいかん。人が助かることのため、世の中の、いわば、お役に立たせて頂く事のためにです。私共が、奉仕しよう。給料どん貰うて奉仕したっちゃつまらん。ね。それこそ、神の用をたしゃ、氏子の用は、神が足してやると仰せられるというところはです。ね。もうこれは、御神徳の世界。
だから、ほんなら、一生懸命、御用させてもらや、自分方の家の事は、神様がしてくださるけんでと言うよな、条件的なもにであってはならないけれども、金光様のご信心の、私は、素晴らしいところは、この辺が、この頃欠けておるのじゃなかろうかとこう思うです。ね。無条件、しかも真心をもってです、今、お役に立たせて頂こうというところ。そこにはです、神様からの給料が来よる。ね。神様から、無限に頂けれるところの、お徳が流れて来よる。為には、先ず、自分が本気で、有り難うならせていただいてです。一心に願わせて頂くことは、私の心のなかに、和らぎ喜ぶ心を頂かせて貰うという事。その、和らぎ喜ぶ心を頂かせて貰うという事。その心で、おかげを受けるだけではなくて、その心で、社会に奉仕しよう。人が助かることのために精進しようという様なです、信心に、もう、合楽も、ぼちぼち、育っていかなければならんのではないか。ね。それに、欠くことが出来ない信心。いわゆる、今日、親先生がお話し下さいましたね。信心辛抱。先生のお話の中に、ね。それを、もっと、親先生が仰ろうとしておる事。親先生の心のなかのもの、ね。親先生が、ここを教えたいと思っておられるといった様な事もです。私が、今日、申しましたような事ではなかろうかと、私は信じます。ね。
これからの信心、これから、そこからのおかげの展開。ね。それは、これはまぁだ、私の信心が足りぬからじゃという、一点に絞らせて頂いて、ね。そんならば、どの様に足らないのか。どの様なところがいけないのかという事をです、ね。しっかり、焦点に置いて練らせて頂く。おかげを頂かせてもろうて、ね。いよいよ、明るい信心に進ませて頂き。そして、少しでも、自分の周囲が、明るうなっていくおかげ。ね。そういうおかげを頂きたいと、私は、日夜、念願しておるのでございます。ね。皆さんも、やはり、どうでも一つ、本気で、ね。世のお役に立ちたい。それも、立ちたいだけじゃいかん。お役に立ちたい、立ちたいというものがなからにゃいけん。二つ続かにゃ。お役に立ちたい。もう、それで、仕舞えたごたる感じ。ですからね、お役に立ちたい、立ちたいと念願せにゃならん。そこんところがです。私は、ひたむきの信心だという風に思うのでございます。ね。今朝から頂きます。そこからの信心。そこからのおかげの展開。それは、これはまぁだ、信心が足りぬからだと頂かせて頂けれる信心を、お互い、身に付けて行きたい。ね。そこから、新たな信心が生まれてくる。勿論、新たなおかげが伴うてくることは、勿論ですよね。
今日は、吉備舞もございませんでした。親先生のお話も短かった。まぁだ、あちらへ、御直会の準備が出来ていませんので、まぁ、ご挨拶方々、こうして、お話させて頂きましたが、どうぞ、一つ、ここでご信心の稽古をさせて頂かれる方。やはり、私の、
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